略史
●1521年 マゼランのフィリピン到着
●1571年 スペインの統治開始
●1898年 米西戦争。6月12日、アギナルド将軍が独立を宣言
12月10日、米西パリ講和条約調印。米の統治開始。
●1935年 独立準備政府(コモンウェルス)発足
●1942年 日本軍政開始
●1946年 7月4日、フィリピン共和国独立
●1965年 マルコス大統領就任
●1972年 戒厳令布告
●1986年 2月革命によりコラソン・アキノ
大統領就任、マルコス大統領亡命
●1992年 ラモス大統領就任
●1998年 エストラーダ大統領就任
●2001年 アロヨ大統領就任
●2010年 ベニグノ・アキノ3世大統領就任
●2016年 ドゥテルテ大統領就任
植民地の歴史
スペイン植民地時代(1565年-1898年)
333年間はスペインの植民地
アメリカ合衆国植民地時代(1898年-1946年)
48年間はアメリカの植民地
独立以後の時代(1946年-現在)
日本とフィリピンの歴史
豊臣秀吉とフィリピン
日本とフィリピンはスペインによるフィリピンの植民地化(1592年)以前より関係があった。1591年豊臣秀吉はスペインのゴメス・ペレス・ダスマリニャス総督に、日本に入貢を促す書簡を持たせて原田孫七郎を派遣した。 1592年7月、ルソン総督ゴメス・ペレス・ダスマリーニャスは、ドミニコ会士のフアン・コボを派遣、秀吉に書信と贈物を届けると共に、在ルソン日本人をマニラのデイオラ地区に集団 居住させる措置を採った。(日本人町の始まり)
朱印船貿易と日本人町
豊臣秀吉はキリスト教布教の伴わない南蛮貿易を望み、自らルソンとの交易を推進しようとしていた。両国が本格的に貿易を始めたのは1592年、豊臣秀吉によって朱印船貿易がおこなわれるようになってからである。スペインは当時、同じくスペイン領のメキシコとマニラを結ぶガレオン貿易を重要視しており、フィリピンには商人やキリスト教のアジア布教を目的とした宣教師が多く訪れている状況であった為、日本人が東南アジアに進出すると自然とこれらの商人を相手とする通商が発展していった。貿易に従事する多くの日本人が東南アジアに移り住み各地で日本人町を形成し、フィリピンにもマニラなどに日本人町が作られた。
1570年には20人ほどだった日本人居住者は、17世紀には1500人、最盛期には3000人にもなった。1614年にはバテレン追放令を受けてマニラに到着した大名、高山右近をスペイン人フィリピン総督、フアン・デ・シルバらが歓迎している。しかし1633年以降の鎖国令によって、日本人町は衰退しやがて消滅する。
鎖国の後、日本は公的な外交を中国(明、清)、朝鮮、オランダ、そして事実上の勢力下においた琉球に限っており、フィリピンを含む各国との交流はほぼ断絶した。
開国後
1868年に日西修好通商航海条約が結ばれ、日本とスペインの国交が樹立される。
1895年に「国境確定ニ関スル日西両国宣言」が東京で調印された。この宣言は両国の所領権を明確にするため、台湾(日本領)とフィリピン(スペイン領)の間のバシー海峡を両国の境界線と定めた。1899年に米比戦争が起こると、日本の明治政府は戦争遂行のための武器弾薬を運搬する布引丸の購入を支援するなどフィリピン独立革命の支援を行っており、1913年フィリピン第一共和国が崩壊すると、アルテミオ・リカルテ将軍らの政治亡命を受け入れたりしていた。ダバオの日本人街
1910年代に農園経営の為の日本人労働者がダバオに大量に移民し、1916年には町の日本人人口が1万人を越え日本人街が形成された。日本人学校や神社仏閣なども建設され発展したが、太平洋戦争が始まると日本人は強制収容された。日本軍のフィリピン占領によって日本人は解放されるが、1944年にフィリピンをアメリカが再奪回した際に街は激戦地となり壊滅した。
日本とフィリピンの年表
●1591年 豊臣秀吉、スペインのマニラ総督に対し入貢を要求。
●1592年 朱印船貿易開始。以後日本町がマニラに発展。
●1601年 フィリピンから出港したスペイン船により、日本にたばこが伝来。
●1603年 フィリピン総督の書簡を携えたルイス・ソテロが来日。
●1614年 日本を追放された高山右近がマニラに到着。
●1609年 フィリピン総督ドン・ロドリゴが上総国に漂着。
●1633年 鎖国令により日本からの出入国が厳しき制限され、以後日本町は衰退。
●1698年 ガレオン貿易ルートを経て、サツマイモが日本に伝わる。
●1830年 備前国を出港した神力丸がフィリピン北部に漂着。
●1835年 肥後国を出港した船がルソン島に漂着。
●1868年 日西修好通商航海条約が結ばれる。
●1888年 マニラに日本領事館が開設。ホセ・リサール来日。
●1899年 布引丸事件が発生。フィリピン独立革命の支援船布引丸が暴風雨によって沈没した。
●1905年 日米間による桂・タフト協定で、日本はアメリカの植民地フィリピンに対し領土的野心がないことを表明。
●1908年 日米間による高平・ルート協定で、フィリピンにおけるアメリカの管理権を日本が承認。
●1941年 フィリピンに日本軍が上陸(フィリピンの戦い (1941-1942年))、占領。
●1943年 大東亜会議に日本代表とフィリピン代表が出席。
●1944年 フィリピンに連合軍が上陸(フィリピンの戦い (1941-1942年))、占領。
9月 モロタイ島の戦い
10月 レイテ島の戦い、 レイテ沖海戦
12月 ミンドロ島の戦い
●1945年
2月 マニラの戦い、ビサヤ諸島の戦い
3月 ミンダナオ島の戦い
4月 スールー諸島の戦い
5月 ボルネオの戦い
●1956年 日比賠償協定締結。
●1960年 日比友好通商航海条約署名。
●2006年 日比経済連携協定・日比共同声明
※wikipedia引用